〔コラム〕タイ・・・インラック政権崩壊・戒厳令発令・軍事クーデター(まとめ)

 タイでは昨年(2104年)戒厳令を経た軍事クーデターにより、現在プラユット暫定首相による軍事政権下にあります。軍事政権下で混乱が収まっていたタイ国内ですが、8月17日の夜、バンコク市内で死傷者のでる爆弾爆発事件がありました。

 現在のタイの置かれた状況を理解するために、これまでのことをまとめてみました。

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○タクシン首相に対する国民の不満と退陣(2006年)

 現在のタイを理解するためには、2001年までさかのぼる必要があります。

 2001年、タクシン・チナワット氏が第31代首相の座に就きました。タクシン政権は自己の出身地でもあるタイ北部の農民たちを優遇する政策で、北部の人たちからの支持を得ながらも、富裕層や都市部の中間層からの反発を受けていました。

 2006年1月にタクシン一族の保有する「シン・コーポレーション」をシンガポールの会社に売却した際の課税額の少なさに国民の批判を浴びたことをきっかけに、タクシン政権は国民の判断を仰ぐために2006年2月24日、下院の解散に追い込まれました。

 タイ北部を中心に多数の支持層を持つタクシン首相にとって、総選挙は怖くなく、選挙すれば必ず勝つ自信はあったはずです。その事実を理解している反タクシン派の特権階級や都市部の富裕層、中間層は、選挙ではなく、タクシン首相の退陣を求めるデモをバンコクで実施しました。2006年4月2日、予定どおり総選挙は実施されたのですが、野党がボイコットし白票が多数となり400の選挙区の内39選挙区で有効票が規定に達せず、再選挙となりました。

 再選挙を実施しても事態は変わらないと判断した、タクシン首相は2006年4月4日、国王に退陣を表明し次の首相が決まるまでの期間を表向きは副首相に首相代行職を委任しながら、実際はタクシン氏が職務を行っていました。反タクシン派の不満はたまり、2006年9月19日、軍事クーデターが起きました。タクシン氏はそれ以来海外亡命生活を続けています。

○タクシン元首相の妹インラック・シナワトラ氏が首相に(2011年)

 2006年9月19日の軍事クーデター以降、暫定を含め5年間に6人の首相がタイの政権を預かりました。そして、2011年7月3日の総選挙にてタクシン元首相の妹のインラック・シナワトラ氏がタイ貢献党首相候補として選挙戦を戦い、タイ貢献党は79議席増やし500議席中265議席という過半数を制して勝利しました。そして2011年8月8日第36代首相に就任しました。

 インラック首相は政権発足後直後に米の高値買い上げ政策(「コメ担保融資制度」)を導入して農民たちの生活向上の政策を進めます。これがのちにインラック氏弾劾のタネとなります。

○都市部でデモが活発化・非常事態宣言へ(2013年~2014年)

 インラック首相はタクシン元首相同様農村部を重視した政策をおこなっていたため、農村部の票をしっかり集めており選挙では勝ち目のない富裕層や都市部中間層の不満は大規模デモという行動に表れました。

 インラック政権が提出した恩赦法案(タクシン元首相の帰国・復権を認めるなど)がきっかけで反政府派による大規模抗議行動が始まりました。

 2013年11月24日と25日、首都バンコクで大規模な反政府デモが行われ財務省や外務省の建物が占拠されました。デモを主導したのは野党・民主党のステープ前副首相です。その後もデモは続き11月28日までに中央省庁の半数が閉鎖に追い込まれています。12月2日にはデモ隊は首相府への突入を開始しました。

 2013年12月9日、インラック首相は下院を解散して民意を問う意向を表明し、2014年2月2日に総選挙を行うこととしました。しかしながら選挙では勝てない野党及び反政府派は、同じ日大規模デモを行い、下院の定数500のほぼ3分の1の最大野党民主党約150人全員が下院を辞職し、党首のアピシット前首相他辞職議員が一市民としてデモに参加したのです。その日のデモには約25万人が参加したと言われています。

 その後も、インラック政権打倒を訴える反政府派はステープ元副首相を中心に活動を続け、2014年1月5日にバンコクの街頭での抗議行動を再開。そして事前予告の通り1月13日からバンコク封鎖が開始されたのです。バンコクの主要な交差点などをデモ隊が占拠しインラック首相が退陣するまで封鎖を解かないとしていました。

 これを機にいろいろと事件も起きています。2014年1月14日未明、首相府近くの反政府拠点に爆発物が投げ込まれ7人が負傷。また同日の深夜には最大野党の民主党党首アピシット前首相の自宅に何者かが爆発物を投げ込んだ事件も発生しました。

  政権側は、事態打開のために1月15日午前、総選挙延期の可能性について反政府派を含め幅広く話し合うフォーラムを開催するとしたが、反政府デモ隊や民主党だけでなく、タクシン派の政治団体、反独裁民主統一戦線(UDD)など主要団体は出席を拒否しました。

  1月17日の午後、バンコク・パトゥムワン地区で反政府デモ隊に何者かが爆発物を投げ込み38人が怪我をし、付近の建物から所有者不明の組立途中のライフル銃などが多数見つかるという事件も発生。治安はかなり悪くなってきました。

 そんな状況下の2014年1月21日、タイ政府は首都バンコクと周辺県に非常事態宣を宣言しました。非常事態宣言は2010年以来で、2010年の非常事態宣言では国軍がデモ隊を強制排除し、90人を超える死者が出ています。その時の世論や世界からの批難を教訓に、今回の非常事態宣言では国軍ではなく国家警察本部が治安担当となり、国軍は中立の立場をとりました。

 非常事態宣言後、街には目立った混乱はなくなりましたが、大規模集会は続けられていました。本来、非常事態宣言下では5人以上の集会は違法ですが、反政府派はこれを無視して集まっていたようです。

○非常事態宣言下の総選挙(2014年)

 2014年2月2日、非常事態宣言が出されている中、下院議員(定数500人)の総選挙が実施されました。しかし幅広く農民や貧困層の票を集める与党に選挙では勝てないと判断した野党・民主党はインラック内閣の退陣と抜本的な政治改革を優先させるべきと主張し、2013年12月に選挙をボイコットする意向を表明していました。

 その結果、この日の選挙はインラック政権に対する信任選挙」なったのですが、全国375の選挙区の2割近くでは、反タクシン派の選挙妨害によって投票が中断されるなどの影響を受け、投票率は約46%と低迷しました。選挙管理委員会は、投票が妨害された投票所でのやりなおし選挙を発表し、一部の選挙区で再投票が行われましたが、民主党は、この選挙自体が無効であると憲法裁判所に提訴し、憲法裁判所は、「選挙は全国同一日に行う」と定めた憲法に違反すると判断し2月の選挙の無効を決定し、再選挙を命じました。

 ところが、3月には「選挙よりも先にやるべきことがあるはず」と訴え再選挙に反対する反政府運動が激しくなってきました。3月29日にはバンコクで大規模デモが行われています。その後5月1日には2014年7月20日にやり直し選挙を実施すると政府と選挙管理委員会が合意に至っているのですが、その前にコトは置きました。

○インラック首相の失職と弾劾(2014年)

 バンコクで反政府派による大規模集会が続くなか、タイの憲法裁判所は2014年5月7日、2011年のインラック首相の行った政府高官人事が「親族を利する行為で権力乱用」にあたるとし、違憲判決を下しました。その結果、インラック首相は失職しました。

 また5月9日にはタイ国家汚職追放委員会が、インラック政権が2011年に導入した政府によるコメの高値買い上げ政策を巡って、インラック前首相を告発することを発表しました。前首相はすでに失職していますが、弾劾が決まればインラック前首相は政治活動を禁止されたり刑事責任を問われることになります。

 2015年1月9日、タイ国家立法会議(2014年5月の軍事クーデターで廃止された旧国会に代わるもの)は弾劾手続きに入り、1月23日には弾劾が決定されました。その結果、インラック前首相は公民権が5年間停止されました。

 また、同日タイの検察当局はインラック前首相を職務怠慢の罪で最高裁に起訴する方針であることを発表しました。インラック前政権が導入したコメを市場価格より事実上高く買い取る制度に関して、巨額の赤字が生じる恐れがあると警告されたにもかかわらず、制度を見直さなかったことが理由とされています。2月19日には起訴され3月19日にタイ最高裁判所が告訴を受理5月19日は初公判が行われています。

○戒厳令発令と軍事クーデター(2014年)

 2014年5月9日、インラック前首相が失職した後タクシン派の二ワットタムロン副首相兼商業相が首相代行に就いたことを受け、タクシン氏の影響力根絶を訴える「人民民主改革委員会(PDRC)」が、バンコク中心部のルンピニ公園から旧市街にある首相府や国会に向けて大規模なデモ行進を行いました。約2万人が参加したと言われています。

 2014年5月20日、国内の秩序回復のために国軍は国内に戒厳令を発令しました。タイ国内ではこれまで暴力的な抗議活動により6ヶ月に渡って反政府派によるデモが続いており、約30人が死亡する被害を出していました。これを受けて陸軍のプラユット司令官が「軍が治安維持に当たる」と表明しました。

 この時点では「クーデターではない」としていたのですが、5月22日夕刻、陸軍のプラユット司令官が「クーデターを決行した」と発表しました。その後8月25日にタイ国王の任命を受けプラユット氏が暫定首相に就任し軍事政権となりました。

 時をさかのぼること半年前の2013年12月、その時点では中立的な立場にいるとしていた軍のプラユット陸軍司令官は、治安の状況次第ではクーデターに乗り出す可能性も排除しないと発言していました。

○秩序回復と経済低迷(2014年~2015年)

 2014年5月22日の軍事クーデター後、8月にはプラユット陸軍司令官による暫定首相就任で軍政となったタイは、秩序を取り戻した一方、経済的低迷が始まりました。その後、2015年4月1日に戒厳令を解除し、2016年9月には民政移管のための総選挙を実施すると宣言し、総選挙に向けて新憲法の草案を進めていました。

 経済的にも少しずつ回復の兆しの見えた2015年8月17日、バンコクで死傷者を出す爆弾爆発事件が発生したのです。

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〔エムニド・リサーチャー 仁藤誠人〕 2015年8日17日 


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