インドネシア共和国の歴史

 

 

100万年前

  • ジャワ原人が居住(サンギラン初期人類遺跡[世界遺産])

14世紀

  • イスラム教の伝播

1511年

  • ポルトガルによる征服

1602年

  • オランダ東インド会社がジャワ島に進出。

1619年

  • オランダによるジャカルタ制圧、植民地化。以降1942年2月の日本軍侵攻までオランダ植民地時代

1908年

  • ブディ・ウトモ(ジャワ語で「至高の徳」)結成

1911年

  • サレカット・イスラーム(イスラム同盟)結成

1920年

  • インドネシア共産党結成

1928年

  • スカルノらによりインドネシア国民党結成

1941年夏

  • 「ABCD包囲網」で日本と対立

1941年12月8日

  • 太平洋戦争開戦

1941年12月10日

  • オランダ政府が仁保に戦線布告(オランダ領東インド政府の独断ではないかとも言われている)

1942年2月

  • 日本軍の侵攻によりオランダ植民地支配が崩壊。スマトラ島、ジャワ島に進攻。

1942年3月1日

  • 今村均中将率いる第16軍5万5千が上陸。
  • 今村中将は「独立のいうものは、与えられものではなく、常に戦い取るべきものだ。彼らが戦い取ることのできる実力をつけてやるのが我々の仕事だ」とか。
  • 約300の言語統一はこの頃始まる。

1942年3月10日

  • オランダ領東インド軍4万人は全面降伏
  • オランダ軍に軟禁されていたスカルノやハッタなどの民族主義運動家が解放される
  • 日本軍はスカルノやハッタと協力する体制でインドネシア人を現地官吏に登用
  • 「インドネシア」の呼称利用を解禁する

1943年10月

  • インドネシア人指揮官が率いる「民族軍」である「郷土防衛義勇軍(PETA:ペタ)を組織化※ただし、石油資源の安定確保を目的に、日本軍直轄の軍政地域とし、独立を認めなかった

1944年9月3日

  • 将来のインドネシア独立を認容する「小磯声明」発表

1945年3月

  • 日本軍は独立準備調査会を発足。独立後の憲法案をスカルノやハッタに作成させる

1945年8月7日

  • スカルノを主席とする独立準備委員会を設立。(その後敗戦による中止となる)。8月18日が第一回目の会議の予定だった。

1945年8月15日

  • 太平洋戦争終戦

1945年8月16日 早朝

  • スカルノとハッタが「日本軍と敵対しても独立すべき」と主張する青年グループに拉致される。「レンガス・デンクロック事件」
  • スカルノとハッタ、スバルジャは青年グループを説得。8月17日正午までに独立を宣言することにする

1945年8月17日

  • 午前10時頃、スカルノ私邸で約1000人立ち合いのもとインドネシアの独立を宣言。インドネシア共和国成立。オランダはこの宣言の無効を主張

1945年~1949年の4年5か月間 インドネシア独立戦争

1946年11月12日

  • オランダはジャワ島、スマトラ島、マドゥラ島をインドネシア共和国勢力下であると認め、双方で連邦国家の構築に向けて努力するという停戦協定「リンガジャティ協定」を成立

1946年11月末

  • 仲介国であったイギリスの軍がインドネシアから完全撤退

1947年1月24日

  • オランダは東部ジャワのクリアンとミドアルジョを攻撃し占領。

1947年6月28日

  • オランダがインドネシア全域への進軍を命令。スラバヤ、ジョグジャカルタを空爆

1947年7月21日

  • オランダ軍のインドネシア進攻(第1回目)(※オランダは「(第一次)警察行動」と主張)

1947年8月1日

  • 国際連合が介入。安全保障理事会で停戦と仲裁による和平解決を求める。(「安保理決議27」)

1947年8月4日

  • 停戦成立。しかしながらオランダ軍の攻撃は終わらず。
  • オーストラリア、ベルギー、アメリカ合衆国による仲裁委員会設置。オーストラリアはインドネシアが指名し、ベルギーはオランダが指名した。

1948年1月7日

  • 停戦協定「レンヴィル協定」で、インドネシア共和国領をジャワ島の中部と西部、マドゥラ島のみとした。

1948年12月11日

  • 和平会議決裂が宣言される

1948年12月19日早朝

  • オランダ軍のインドネシア進攻(第2回目)(※「第二次警察行動」)
  • ジョグジャカルタを攻撃
  • オランダはスカルノ大統領、首相兼副大統領のハッタ他閣僚の大半を逮捕
  • インドネシア共和国はスマトラで臨時政府樹立を宣言
  • スカルノもオランダとの交渉継続を破棄し、徹底抗戦を全国民に訴える
  • 「オランダの軍事的勝利は外交的敗北の始まりだった」と言われた。インドネシア内の傀儡国家によるオランダ離れが進み、後にインドネシア共和国に合流する

1948年12月24日

  • 国連安保理はオランダ共和国指導者の釈放要求を決議
  • アメリカ合衆国がハッタ政権を高く評価し、オランダへの経済援助停止を通達

1949年7月6日

  • スカルノら指導者はジョグジャカルタに帰還。7月13日にはスマトラの臨時政府をジョグジャカルタに戻す

1949年8月23日

  • オランダ首相の主導により同国の首都ハーグで「ハーグ円卓会議」開催。11月2日まで開催され以下が決まる。

1.インドネシア連邦共和国を樹立する
2.オランダは無条件でインドネシアの主権を連邦共和国に引き渡すことに同意する
3.インドネシア連邦共和国は、オランダ=インドネシア連合(イリアン・ジャヤを含む)に参加し、オランダ女王をその元首とする
4.インドネシア連邦共和国の外交、国防、財政等にオランダは永久に協力する、など

※オランダがインドネシア共和国から連邦共和国への移行に合意した背景には、オランダが作ったいくつかの傀儡政権を含めることでオランダの影響力を残そうと考えた

1949年12月27日

  • インドネシア連邦共和国(Republik Indonesia Serikat)設立。オランダが主権を移譲

1950年8月15日

  • インドネシア連邦共和国がひとつの「インドネシア共和国」となる

1955年

  • アジア・アフリカ会議

1956年

  • スカルノは「指導された民主主義」を提唱し、独裁制へ。ソビエト連邦に接近

1958年1月20日

  • 日本とインドネシアの平和条約賠償協定が締結

1960年

  • オランダ支配下にあった西イリアン(ニューギニア島の西半分(現パプア州))に進攻。(1962年には国連管理下となるが、1963年インドネシアへ)

1965年

  • 9.30事件(クーデター)

1968年

  • スハルト大統領就任

1998年

  • アジア通貨危機・スハルト大統領失脚。ハビビ大統領就任

1999年

  • 東ティモール独立承認
  • ワヒド大統領就任

2001年

  • メガワティ大統領就任

2004年

  • 初の国民直接投票によりユドヨノ大統領就任